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Part10   生命のことぶれ

 

 
 
色・言・音>をめぐる断章

 1月の半ば過ぎ、まだ太陽は低く木々の葉や花の芽は固い頃、辺りには淡い緑の世界が広がります。草木の葉が発芽する前に、木の幹に生えている苔が緑のグラデーションや模様となって木々に緑の衣を着せ、静かに春の到来を予告します。この神秘的な生命の序曲は、ほんの1週間から10日の間ことで、ともすると気づかずに見逃してしまいそうです。立春を過ぎると、陽はぐんぐんと明るさを増し、これらの微妙な色合いは陽光の中に溶け込み、早春の草花の色が春の幕開けを彩ります。一言に「緑色」といっても自然界には種々の色があり、古今東西を問わず、人はそれを感知し名前を付けてきました。それは単なる名前ではなく、人々の創造性であり時代や地域の文化です。

 次回公演は、書を通じて「言葉」との共演でもあります。ここでは、「色」をめぐる言葉を手掛かりに、伝統とその新たな継承について考えてみたいと思います。

色の名前
 世界は多種多様な色彩に溢れています。人間は眼を通してそれらの色を見ることができますが、人間が感知できない波長を捉える生物もいるので、実際にはわれわれの知らない色もまだまだ存在するということです。そして人は、色を観察し、違いを見分け、名前を付けてきました。その言葉は地域によって異なり、共同体を形作る文化となっています。人々は、自然界にある色を身に纏い、道具や装飾に取り入れ、また詩や歌にして生活を彩ってきました。そして、色そのものに意味を与え、民族の象徴として伝えています。
 ヨーロッパでも、緑色は春をイメージさせる色です。冬が長い北ヨーロッパでは、光の中で自然が眠りから目覚め、すべてが再生されてゆく春の訪れは人生の喜びです。緑色を表す名前も、植物(草、木の芽、苔、モミの木、棕櫚など)には、春の光に萌え出る淡い緑色から常緑樹の濃い緑色などがあり、果実や野菜(ほうれん草、レタス、オリーブ、青リンゴ、アヴォカド、ライム、ピスタチオ、アーモンドの種、ミント、ローリエなど)の色もそのまま名付けられています。また、ナイチンゲールやオウムなどの鳥の羽の色や、エメラルド、孔雀石などの天然石や鉱物の名がつけられた緑色もあります。春の祭りには、豊穣や豊作を祈って緑色の衣装を身に付け、そして国の紋章や旗などにも特別な緑色が使われます。これらは民族の伝統であり誇りでもあるのです。
 さて、日本の伝統色を見てみると、日本人の感性と古代からの文化の豊かさを示す、驚くべき種類の色の名前があることが分かります。現代の私たちは、それらをどのくらい継承できているのでしょうか。草の緑も、早春の「萌黄色」「若草色」「若葉色」「若苗色」「浅葱色」「浅緑」「若竹色」「苔色」「青丹色」(あおにいろ)が、春の盛りになると「草色」「竹色」「海松色」(みるいろ)「深緑」と濃さを増し、夏から秋に成熟しくすんだ「老緑」「老竹色」と茶や黒みがかった緑色に変化します。また、鳥の「鶯色」や「真鴨色」、「鶸色」(ひわいろ)、「青白橡」という山鳩の羽の色、他に「抹茶色」「青磁色」「緑青色」などがあります。柳の木は古代から好まれ、その葉は「柳葉色」のほか、葉の裏側の薄い色も「裏葉柳」と名付けられています。さらに、山一面の緑が風の強い日には葉が風に裏返り、全体が白っぽく見えることにもこの「裏葉色」という表現を当てています。そしてこれらの色の名前は、「あおによし」のように万葉集などの和歌の枕詞や古典文学、そして江戸時代の俳句の季語となって洗練されていきました。
 これでもまだ「緑色」の一部ですが、日本語の数々の色の名前は、単に染色の種類や詩歌の世界に閉じ込めておいてはもったいない気がします。これらの色を観察し愛でることのできる私たち日本人の感性を、もっと今の生活に活かしていきたいと思うのです。

現実と仮想

 科学の時代になって久しいですが、それが人間に及ぼす影響については、渦中にいて走り続けている者にはなかなか気付きにくいものです。音楽の世界でも、録音技術というものが導入されラジオやレコードが普及したとき、人々は新しい刺激に好奇心を向け熱狂しました。20世紀を代表する指揮者のひとり、フルトヴェングラーは、このレコードやラジオの功罪について、すでに1931年に論じています。この技術が音楽の普及や教育に大きな貢献をしたことを述べる一方で、これによる音楽活動の衰退に危機感を示しています。「機械を通して再現される音楽には限界がある。」「多数の聴衆と共に共同体験をする感動が欠ける。」更には、「演奏する側が録音向けの演奏をするようになり、完璧さを追求し、人間的な温もり、緊張感、躍動感が失われる。」ことを述べています。(「音と言葉」フルトヴェングラー著/芦津丈夫訳・白水社1978より) 音楽を体験するというのは、どういうことなのでしょうか。この指摘は、現在私たちがメディアの発達によって置かれている環境、特にコロナ禍において、オンラインで音楽を配信するという状況にもそのまま当てはまると思います。今は感染拡大防止のために、代替としてやっていることですが、それが長引き常態化することで、私たちの感性は退化しないのでしょうか。

 言葉も直接対面で伝えるのと、リモートの画面を通して伝えることとの間には大きな差があることを、私たちはこの一年で経験しました。メディアから、記号化された映像や音声は情報として通信されます。ところが、実際に生きている私たちは常に変化し、表情や声の調子、目や体の動きは留まっておらず、時間の流れの中で色々なことを表現しています。そして、相手は伝達の内容と共にこの変化を感知して、理性と感性によって自分の中で全体像を結んでいます。それがリモートでは、ツールの精度がどんなに良くても、この動きは‘部分’として分断され、生きているものとしての質感や変化は薄められ平坦な形でしか伝わりません。なぜなら、この‘部分’は、‘全体’の普遍性を伴っていないからです。

 時間の中で人は他者を、過去と比べて「似ているもの」として相手を認識しているのではなく、動きや話し方など、その人にまつわるすべての‘部分’と‘全体’とに一致した「核のようなもの」(その人らしさ)を見出しています。それは、音楽の体験においても同様なことが言えます。私たちは、曲を始まりから終わりに向かって聴いていますが、各部分は全体との関係の中で循環し、一貫したものとして捉えています。この親和性は、自然に対する感覚と同じで、音楽の演奏や聴取というものが、有機的な性質を持っているからではないでしょうか。また、私たちが部分を統合して全体を包括するのに必要なものは、思考(言葉)です。思考には、科学的思考や文学的思考、芸術的思考など様々な専門的立場があります。歴史についても、色々な分野からのアプローチには無限の創造の可能性が含まれています。思考は精神であり、それゆえその創造の豊かさを引き出すのは、今を生きる私たちの言葉の力にかかっています。このように、物事を全体として捉えるためには、「思考」と「感性」の両輪がバランスよく働かないと、生き生きとした現実にならないのだと思います。

現在、政府主導でデジタル化を加速させようとしていますが、それは芸術の体験や創造、また教育の場にとっては決して進歩ではなく、大切なものを削ぎ落とす合理化に繋がる危険性を孕んでいるのではないかと懸念します。デジタルを通した無機質な世界を、生身の私たちはしばしば「不自然」と感じます。そのような違和感の中でも、私たちは画面を通しての会話やパフォーマンスに普遍性を無意識に探し、少ない情報の中で理性がカバーし、無理やり繋がろうとしているのかも知れません。今は仕方なくても、この「違和感」を放置すれば、文化は本当に「不要不急」のものになってしまうでしょう。

◆‘伝える’ということ

 文化・伝統はある時代の、ある土地の共同体の精神から生まれ、次第に成熟し、その様式や作品は自律的に世界の多様性の一端を担うようになります。しかし、楽譜や書物の中に保存されているだけでは無力で実体はなく、それらは後の時代を生きる人々の記憶と精神によって、再現したり読まれたりすることでしか生きられないのです。今日のグローバル社会では、どの地域のどの文化も人類全体の遺産として継承されるべきものであります。そこには歴史的解釈をする「言葉の力」と、新しい意味を与える「創造の力」といった、より高次な、世界を包括的に見る精神が必要なのではないでしょうか。

 「表わし、伝えること」の難しさ、と同時に苦労を乗り越えて伝わった喜び、それこそが、生きている実感となって私たちに活力を与えます。音楽や舞踏、演劇も、人が‘いま、そこで’発するリアルを直接受け止めるところにその醍醐味があります。西洋音楽は、祈りの言葉を唱えることから出発し、言葉の世界を表す音楽になり、やがて言葉との分離によってより壮大な精神の高みへと羽ばたき、発展していきました。日本の古典文学の中には、ひとりひとりが全身全霊で自然や人と向き合い、愛し、言葉を吟味して伝えようとした人間のリアルな姿が息づいています。いずれも、「伝える者」としての人間の根源的な姿を見ることができます。そして、これらの文化遺産は「伝える心」によって受け継がれて行くのです。

「今の願いは何ですか?」という問いに、しばしば「早くこのパンデミックが終わって、元の日常に戻りたい。」という答えが返ってきます。しかし、私たちは一体どこへ戻るのでしょうか?私たちは生きている限り、元に戻ることは出来ません。いくら息を凝らして何かを我慢しても、家に籠っていても、生物は変化し続け前に進むしかないのです。私たちが自らの言葉を持ち、歴史に新たな意味を見出しながら様々な出会いを受け止めるなら、そこに人間らしい「新しい日常」は足元から始まるのではないでしょうか。

 このデジタル社会の中で、もし私たちが戻るとすれば、1年前でも100年前でもなく、1000年前の人々の感性を手に入れたいと思うのです。豊かな文化の中で育まれた宝箱から、輝く言葉を見つけて交わし合う――スタンプひとつで気持ちを伝えたつもりにならず、生きていることばや音楽を伝えて行けたらと願います。それは私たちの意志によって叶えられるでしょう。言葉も音楽も、同じ心から発せられるものなのですから。

                      20212.12.細川久恵

                                                                                          Photo:細川久恵

 

〔参考〕

加藤迪男 編著『色の日本語いろいろ辞典』 ㈱日本地域社会研究所 2009

早坂優子 著『和の色のものがたり 季節と暮らす365色』 ㈱視覚デザイン研究所 2014

コロナ・ブックス編集部『フランスの色』 平凡社2010