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Part 5 ~手摘みのぶどう~

<響き合うかたち>

 

 次回公演のタイトル「音景」にサブタイトルとして掲げた「響き合うかたち」は、オルガンと書との共演そのものの実体験と共に、それぞれが持つ様式から導き出される美への志向が互いに共鳴する状態を表しています。そしてまた、そこに立ち会う鑑賞者との間にも、受け取る感情を通してこの‘時の経験’が響き合うことを期待しています。

 「響く」という言葉は、音や声が振動して広がるという物理的状態と、心に通じる、影響する、意味が受け止められる、といった心理的な意味を持っています。そして、「響き合う」と言えば、音やメッセージの発信元や反響の先が複数になり、それらが共鳴し交流するイメージがあります。それが実現する時、そこはさまざまな一期一会の‘出会いの場’となるでしょう。

 また、「かたち」は、物の形、形状を意味します。漢字の成り立ちでは、“枠で型を取り色彩を施した美しいもの”を表しています。そして、この「かたち」の概念は、それぞれの分野においては、固有の形式や意味になります。音楽においては、その構成要素の中で、「音型」や「様式」「形式」に当たります。それらは、ある一定の規則性や、時代、地理的条件などの枠に制約される側面もありますが、個々の作曲家を取り巻く環境や思想から生まれる豊かな個性は、それらの制約を越えて私たちの心に響いて来ます。

動きと表情

 「かたち」を意味する「フォルム(フォーム)」は、様々な分野で使われています。車などの工業デザインや、スポーツ、ファッション等においては、物や身体の‘動き’と一体になって表されます。動きは形となり、機能の追求は最終的に美しさをもたらします。

 音楽は、音と音との関係によって認識され、一連の音型は‘動き’を連想させます。例えば、ド⁻レ⁻ミ⁻ファ⁻ソと上行するモチーフは、坂道や階段を上る動き、反対にソ⁻ファ⁻ミ⁻レ⁻ドと下行する音型は、下っている動きを思い浮かべることができるでしょう。そして、それらを演奏する時には、上行形では次第に強く、下行形では次第に弱く、といった表現が自然の流れとして考えられます。ところが、場合によってこの動きに逆らった表現方法を用いることがあります。上っていくのに次第に弱く、下っていくのに次第に強く、というような演奏をすれば、その先のドラマティックな展開への緊張感や、幻想的なニュアンスなどを生み出すことができるのです。 

 また、楽音は高さと同時に、長短の組み合わせや、音同士の括りによってリズムを作ります。同じ形が反復する「パターン」に乗ることは、やはり‘動き’をもたらし、そのパターンの配列が情緒や感性に働きかけ、楽しさや美的満足感を得ることができます。しかし、この反復があまりにも機械的で単調なものであれば、私たちは退屈し、むしろストレスを感じるのではないでしょうか。その代りに、モチーフが引き伸ばされたり、短縮されたり、逆行したりといった変化を見せ、それらが全体の調和の中で展開する時、私たちの感性は刺激されます。「変奏(曲)」という形式がありますが、ある短い主題や歌を様々なヴァリエーションにより構想されたもので、古典の時代から現代まで、多彩な様式が発展してきました。同じテーマが次々と形を変え、全体が一つの曲に統一される経験は、聴き手に豊かさと調和を与えます。

 このように、私たちが心地よいと感じるポジションは、自然な動きの安定感と、そこに時たま現れる変化や、創造性のある表現の刺激とのバランスにあるように思われます。

変化と調和

 12世紀後半から、北フランスを発祥とするゴシック教会群が登場しました。東方やイスラムの影響を受けたそれ以前のロマネスクの重厚な建築と異なり、オジーヴと呼ばれるアーチ型天井の発明によって、高い壁と大きな窓を持つ巨大な建築構造が可能になりました。天井に向かって伸びる無数の柱や、光を取り入れる色ガラスなどの装飾は、宗教的な意味と同時に、その土地の自然と時代の精神が反映されています。建築の構造自体はち密に設計されていますが、今注目したいのは、脇役とも言える細部の装飾たちです。入口の枠や、内部の柱の上部などに彫刻されているデザインは、植物の葉、動物や人の顔などのモチーフが多いのですが、良く観察すると同じものはひとつもありません。モチーフは同じでも、そのひとつひとつには微妙に変化が見られます。ステンドグラスも、窓枠の大きさは揃っていても、描かれる絵によって色彩や配置がすべて異なります。ところが、私たちがその場に立つと、それらは統一された自然の調和の世界として受け止められます。もし、それらが全くの画一的反復によって出来ていたなら、どんなに豪華で大きな建物あっても、これほど心に響かないのではないかと思うのです。

その鍵は、自然界と私たちの感性との関係にあるように思います。

私たちを取り巻く自然は、多様な種類の生命の集合体であり、各種類には固有の形態があります。一本の草木に繁る葉は、形状は同じでも個々の葉には大きさや形に違いがあり、規格品のような同一型ではありません。しかし、私たちはそれを1つの種類として全体的に捉え、美しさを感じます。

また、こんな実験もあります。自分の顔写真の中心線に鏡を立てて、左側の反復と右側の反復という全く左右対称の顔を作ったとき、自分とは思えない奇妙な姿を見出します。確かに左右の顔は同じ特徴を持っていますが、それぞれの側には変化があり、その統合によってひとつの顔になっているのです。

このような「変化と調和」を捉える私たちの感性は、私たちが自然の一部であることを証しているのではないでしょうか。

手から生み出されるもの

 ゴシック教会は、ひとつの建造物が完成するまでには、何百年という途方もない年月と人手が必要でした。それぞれの作業は、何代にも渡って引き継がれていったわけですが、その心は、土地に根差した人々の生き方と信仰心に支えられていたと言われています。身近に咲く花々や、畑に実った果実を供え、労働の喜びと感謝を捧げ、日々の平穏を祈る―その象徴として、柱は飾られました。それは、神の手によって創造されたこの世界を、人間の手が造り続けるという思想に基づいています。それ故、一人の人生の内に建築の着工から完成までを見られずとも、このひとつひとつの労働は、壮大な時間の一部を生きているという感覚に繋がっていたようです。時折、どこか目立たない場所にそっと刻まれた石工の印や、同じ図柄の中にひとつ変わったものを故意に隠した‘幸運の間違い探し’、といった職人の遊び心を発見することがあります。それは、これらの名もない人々の手のぬくもりの跡となって、時を越えて私たちに伝わってきます。

 精神から生まれた意思は、手を通して「かたち」となります。小さな手から巨大な建造物を作り出し、優れた作曲家は、何世紀にも渡って伝えられる名曲を書き上げます。また、人間の手が造りだすものは、自然界にあるものに似てゆらぎを持ち、そこに生命の美しさが感じられます。それらを受け止める経験は、同様に私たちの精神と、自然に由来する感性が響き合うことで実を結ぶのだと思うのです。そしてそれらは、偶然でも成り行きでもなく、人間の‘意志’が成す業なのです。

微笑みのかたち

30年ほど前、ある電器メーカーが、信州の蓼科高原のそよ風のリズムを再現した「1/fゆらぎ」という扇風機を製造し、このモデルは今でも販売されています。一定間隔でない自然の周期を製品に取り入れた着想は画期的で、その後、この概念は他の分野にも広がりました。そこには、現在のような利便性や効率といった目的ではなく、私には“生まれたての赤ちゃんを見守るような”柔らかい発想が感じられ、未来のテクノロジーのあり方への希望を見る思いがしました。

 私たちはいま、新しい生活様式を模索しています。手に触れず、顔を隠し、といった不自然な状況下で、人間の仕事をAIが代用する場面も多くなっています。しかし、どんな世の中にあっても、手から生み出された物の‘かたち’の、背後にある人間らしさを心に響かせ、人間が主体的に科学と共存できる知恵と工夫を、常に進化の中心に置いていたいと願います。これまでも、そしてこれからも、ひとりひとりの手仕事によって造られる毎日の積み重ねが、この先の歴史を創って行くのですから。

               2020.91

細川久恵

 

Photo :細川久恵