令和27月豪雨災害

Part 4    〜八月の散歩道〜

<揺らぐ景色>

 

 今年の梅雨は長引き、各地で記録的な豪雨と河川の氾濫などの甚大な被害をもたらしました。続く雨と新型コロナウィルス感染のおそれから避難や復旧作業は困難を極めています。一方、感染が再び拡大している中、政府主導による経済復興のためのGo Toトラベル キャンペーンが始まり、不安と混乱の夏を迎えています。

 4月から5月の緊急事態宣言の下、突然の行動制限を余儀なくされた私たちは、これまでとは異なる日常生活の捉え方を経験しました。多くの人が通勤や通学を休止し、健康を保つために散歩やジョギングをする日々を送りました。そこで、何度も往来し知っている道を歩いただけでも、何か新鮮な気づきがあったのではないでしょうか。季節の移り変わり、鳥の声、排気ガスの減少した青い空をバックに咲いた桜の花、新緑の瑞々しさ、、、。ふだん忙しく目的に向かって移動する時、また、これまでもウォーキングする度に見ていた景色が、そのときの私には、自分とはかけ離れた輝く世界に見えました。人間世界の危機とは関係なく、自由に生き生きとそれぞれの命を全うしている自然の姿を目の前に、いろいろな思いがこみ上げてきました。

事象は、私たちが「見る」ことではじめて存在します。そして、「見ている」のは一部分であり、それは常に見えない世界の広がりに繋がっています。また、「聴く」という行為も同様です。聴こえているものは物理的な音の振動だけでなく、沈黙を含めた時間の一部分です。対象の意味は始めから存在しているのではなく、常に揺らぎ、流動的です。私たちの意識が物や音に対し限定的な接し方をする限り、それらは光を放ちません。“ただそこにあるもの”として知覚されるだけです。しかしながら、見えない空間や聴こえない音の広がりの中に自分自身と対象物を置き、それらと双方向の交感を経験するならば、はじめて私たちはその“もの”と世界の輝きを感受することが出来るのだと思います。そしてそれは、私たちに備わっている‘感性’に関係しています。

美の多様性

 古代における「美」への考えは、超越的なものや宇宙との関連の中に見出されます。ギリシャで、数比から音程を発見したピュタゴラスは、宇宙が協和音程(ハルモニア)によって秩序と調和を構成し、人間がそれを美として捉えると考えました。またインドでは、美は真・善・美の要素によって構成され、中国でも、美は善と同義であり、自然と人間社会の理想的な秩序に結びついており、芸術は崇高なものとして尊重されていました。

 中世ヨーロッパのキリスト教神秘主義においては、光を美の象徴としました。そして、ルネッサンス以降は、美を感じ、美を生み出す‘人間’に焦点が当てられていきます。近・現代になると、思想や価値観の多様化や、実験的試みにより、美に対する考え方も個性の時代へと移り変わっていきました。

 さらに、西洋と東洋の伝統的な傾向を大きく分けると、西洋では、美は「永遠」や「不変」を表すものであり、物質の中に非物質を見出すことを目指しています。一方、東洋においては、不要なものを削り去ることで、美の本質を呼び出します。日本の美意識は、卑小なものの一瞬の輝きや、滅びゆくものに美しさを感じるところにあります。このように、いずれも存在の神秘を究めるという目標は共通しますが、異なった視点とアプローチによって、世界の文化は様々な姿を見せています。

◆感性について

 「美を感じる心」とは、いったい何なのでしょうか。

「美」は私たちの人生に悦びをもたらし、また個々の趣味に止まらず他者と共感することができるものです。自然に対しても、芸術作品に対しても、私たちはまず対象を感覚で捉えます。例えば、美しい景色や美しい音楽に出会ったとき、「きれい」とか「素晴らしい」と感じます。そこから、その感情を受け止め、対象物のもつ輝きを発見するのは、知識や分析的思考ではなく「美」そのものへ向かう「感性」なのです。逆に、「きれい」や「素晴らしい」要素を組み立てたとしても、そこから「美」は生まれません。例えば、自然を模倣して設計された庭園が人々の心に響くかどうかは、優れた技術によるものではありません。限られた空間の中に自然を「取り込む」のではなく、造り手は自然の中に身を置き、その美しさの輝きを引き出し再現するのです。そして、見る者は、その作品が指し示す美に向かって精神が高められていきます。それが、創造の本質ではないかと思います。これは、音楽をはじめとする再現芸術といわれるジャンルにも当てはまります。 また、私たちは同じ作品を何度も味わうこともあります。そこで重ねた経験の多様さや深さが、作品に内在する価値を引き出すことにもなるのです。作品は、それと対面した人を通して完成されるといっても良いかもしれません。それゆえ、いつも見慣れた道で異なった景色を見出すことも、感性がもたらした小さな‘芸術体験’また‘創造的営み’といえるのです。

美の経験とは、ものと人、また人と人とが出会う一回性の‘人生の時間‘と言えるのではないでしょうか。

立ち止まる

 たった一つの動作―立ち止まること―によって、私たちは大きな意識の転換をするチャンスに出合いました。一直線上に続いていると思っていた日常が中断されたとき、見慣れたものが輝きだします。その発見は、決して限られた才能によるものではなく、すべての人が日頃の生活の中で行うことが出来る「創造」です。経験は、繰り返し新たな意味を生み出します。もしかすると、コロナ禍は、以前のまま走り続けていたら気付かずに現実世界に埋没していた私たちの感性を、呼び覚ますきっかけになったのかもしれません。景色だけではなく、他のすべての人の命に思いを向けること、人と人との交流の大切さ、医療従事者や生活を支える仕事に携わる人々の‘志’に気付くのも、情報からだけでなく、ひとりひとりの「感性」が働いて共感できるものだと思うのです。

 現代・資本主義社会で、文化は産業となり、生産性、スピード、目新しさが求められ、「意味」や「創造」は個人の枠に押し込められています。芸術は教養として位置づけられ、それゆえ不要不急のぜいたくと考えられています。また、その国の文化政策が先進国の証となるという建前の裏で、日本では芸術系の教育は時間も目的もおざなりと言わざるを得ません。文化芸術の価値は、所有や支援に使う金額や知識の量ではなく、物事に接した時、その本質に向かう感性を、一生を通じて育むことにあると考えます。その基盤の上にあって初めて、文化芸術は社会に必要とされるのです。もちろん、論理的思考は、問題解決のために必要不可欠な人間の能力です。同時に、美に向かう感性もまた、人間の大切な特性です。そしてこれらのバランスが個人の人生や社会を豊かに彩る源となるのだと思うのです。

美は言霊に

 毎日、雨のように‘降ってくる’様々な数字や、「両立」「共生」「要請」といった空回りする言葉の虚しさは、私たちひとりひとりが生きているリアルとは程遠いものに感じます。

 洋の東西を問わず、古代において数字や文字は、秩序や調和の象徴でした。音(楽の音)や言葉は‘言霊’といって、禍を退け、場を清める力があるとされ、神事に用いられてきました。中世ヨーロッパ、言葉は詩や祈りとしてグレゴリオ聖歌になり、今日の音楽に発展しました。中国でも、言葉を音声リズムとして定型化し、「書」は文字そのものの美しさを表し、受け継がれています。

 このように、古代の人々は、自然と人間との一体化から「感性」を磨き、芸術を生み出していきました。そこには、根本的に、自然への畏れや謙虚さというものが宿っているように思われます。私たちは、この態度に現在の困難を乗り越えるための、遠く静かな灯りを見ることができないでしょうか。

 路傍の草木が太陽に向かって伸びるように、美に向かって、心からの音を奏で、言葉を伝えられたらと希うこの頃です。

                2020.81

細川久恵

 

Photo :細川久恵