611日 東京アラート解除

Part 3  ~雨あがり~

<感覚と表現>

 

  この度の感染症の危機では当初、「自らを守ることは他者を守ること」という考え方に少なからず共感し、納得して積極的にStay Homeを実践しました。毎日流される聞きなれない言葉や数字に翻弄されながらも、その後少しずつ制限は緩和されていきました。しばらくするとこの「利他利己」の行動理念は、メディアから「いま私たちにできることを!」というキャッチフレーズとなって毎日耳にするようになりました。すると私は何か違和感を覚え、さらに自粛解除の宣言がなされ生活を戻していく段階で、「ニューノーマル」や「新しい生活が始まっています!」というフレーズが加わるとその違和感は増大しました。「感染のリスクに注意しながら元の生活に戻りましょう」という意味だということは分かるのですが、同じ言葉が何度も繰り返されると、この時流に乗り遅れないようにと迫られているような圧迫感を感じます。世界ではパンデミックが拡大し続けているのにもかかわらず、どのような新しい生活なのか、どこへ戻るのかを考えずに、私たちは目の前の同じ景色の中に再び繰り出して行こうとしていないでしょうか。言葉は、どんなに大切なことを言っていても、使い方によっては感覚の麻痺や思考停止に繋がる心理的影響があり、とても難しいものです。そして、そうできない弱い立場の人々への想像力を無くしていく危険性をも孕んでいます。

音楽と自由

 歴史の中で、世界はこれまでに様々な危機を経験して来ました。近年の日本に限っても大きな災害や出来事、とりわけ2011年の東日本大震災と原発事故があります。その直後には、様々な分野で多くの議論や提言がなされました。それらを少し読み返してみると、当時提示されたテーマと今回の危機には共通の問題―すなわち社会の在り方やエネルギー問題、自然環境問題―があり、今回はそれが地球規模で突きつけられていることに気付きます。あれから9年、果たして私たちはどれだけ変わったと言えるのでしょうか。

 危機の際に度々言われるのは「音楽(芸術)に何ができるだろうか?」という問いかけです。これには「いま私たちにできること」のフレーズが醸し出す空気感と同質の居心地の悪さを感じてしまいます。震災の時にも‘癒し’や‘元気’や‘連帯’のために音楽が創られ演奏されました。今回はリモートによる発信が‘イマドキ’を表しています。その活動は確かに、何かを乗り越える時の助けとなり、また未来への新たな可能性に繋がるという点で価値があります。

しかし、この「音楽に何ができるのか?」という投げかけは本来、「音楽とは何か?」と問われるべきものであり、それは、「世界とは何か?」或いは、「人間とは何か?」という探求に繋がる根源的な問いなのではないかと思うのです。人間は、何かを知ろうという欲求が根本的に備わっています。古代ギリシャにおいて音楽は、数論、幾何学、天文学などと同類の“数学”に属していました。そしてこのギリシャの自然科学や、哲学は中世ヨーロッパへ伝わり、ルネッサンス時代に近代科学の礎となりました。それ故に音楽は、単なる音の並びに止まらず、この普遍的な問いかけを常に含んだ人間の営みと言えます。

 各時代の音楽家(芸術家)たちは、その時代の要請や置かれた立場による制約はありましたが、ひとたび作品を生み出す時には、この‘問い’の高みへと向かって自らを進めていったのではないでしょうか。W.A.モーツァルト(175691)がウィーンで、オペラ「後宮からの誘拐」を初演した際、皇帝から「音が多すぎる」と言われました。彼はそれに対し「音は正確に必要な数だけございます、陛下」と毅然として応えた、というエピソードが伝えられています。優れた作品は、作者の技術や自己満足によるものではなく、この普遍性に向かう欲求に突き動かされて創作されているのだと思います。その意味で作者は自由であり、それ故に時代を越えて聴く者の魂に働きかけるのでしょう。

光に彩られた響き

 さて、私にも音楽との出会いがありました。初めてフランスに渡った時のオルガンの音色と音楽“体験”は衝撃的でした。それまで学び、実践してきたオルガンへのイメージは粉々に砕け、別世界に放り出された感じになりました。暗い聖堂の中に窓から射しこむ鮮やかな色彩の光の中、空間を包み込む様々な音色、体中を貫く豊かなフル・オルガンの振動。受け止めきれないほどのこの‘全身体験’は、その後の音楽との向き合い方のベースとなっています。

 そこで私は、この感動を日本のコンサート・ホールで伝えようと、2001年リサイタル・シリーズを立ち上げました。第1回は、「光の中で語りかける風の音」と題し、音楽が表わす普遍的テーマと、移り行く時と光を美術照明によって表現しました。「光」は聖堂内に満ちた色彩、「風の音」は、一定の風圧に保たれた空気がパイプを通ることで発音するオルガンの構造から名付けました。その後このリサイタル活動は、「新オルガンプロジェクト光・風・音」となって続いています。

 異なる感覚が連鎖して同時に経験されるという性質は、個人差はあるものの多くの人に備わっています。その中でも音と色彩は結びつきやすいようです。O.メシアン(190892)はこの特性を強く持っていました。彼自身、「音楽を書いたり聴いたりする際に色を見る」と言って、画家が色を混ぜるように音色を扱い、生涯を通して作曲の上で発展させていきました。彼にとって音色は、まさに‘音の色’であったのでしょう。

 また作曲には、絵を描くように音楽を創る「音画」という技法があります。言葉の意味から連想される概念を音楽によって描写するというもので、ルネッサンスからバロック時代に多く見られます。自然や人間の感情・動きの描写、また時間や数を表現するものです。J.S.バッハ(16851750)もこの手法を用いています。作品の構成を縦糸に、曲のテーマの意味から与えられる調性、テキストやキーワードを象徴する音型を横糸にして全体の雰囲気を醸し出し、感情に直接訴えかけるという立体的表現を施しました。例えば、感情や情景の描写―クリスマスの喜びには上下する分散和音、流れる涙は2音ずつ括られた下降音型、近づく歩みは刻まれた音の連続など―はとても具体的です。また、抽象的な言葉にはシンボリックな表現―「罪」は半音階、「十字架」は交差する2つの音程など―を用いました。そして、聴いただけでは把握できない数による象徴―1曲の中に現れる主題の数、小節数、またモチーフや拍子、調性記号に象徴される三位一体の「3」の数など―を伏線として取り入れ、宇宙的バランスと調和をもってまとめ上げています。

 これらの表現も、五感によって世界を捉え、「音楽とは何か?」の問いに向かう‘祈り’ともいえる最も人間らしい行為と言えるのではないでしょうか。

dolceドルチェ

音楽を表現する用語には様々な言葉があります。amabile愛らしく、capriccio気まぐれに、maestoso荘厳に、vivaceいきいきと、等々。しかしながら、私たち大人は、これらの言葉を観念的に捉えがちです。様々な刷り込みによって定着した意味に支配されているからです。しかしこれらを表現する、または表現を受け止める時には、自分の中にある記憶に照らし合わせ、具体的な皮膚感覚として感じることが大切です。そうすることによって、物事や表現は自分と関係をもった‘経験’となるからです。

 身の回りにも、しばしば感覚をまたぐ言葉を見つけることができます。「甘い香り」「透明な味」「温かな音色」といった別の感覚に付ける形容詞を使った表現は、想像力を伴わなければ共感できない言い回しです。音楽でもdolceという言葉を使います。「優しく、柔和に」という意味ですが、このイタリア語には「甘い」という意味もあり、イタリア料理でドルチェと言えばデザートのことです。甘いものは人の心を優しく笑顔にしますから、どんな表現を示すのかが一瞬にして想像されるでしょう。このように、別の感覚からその言葉の具体的なイメージを繋ぐことは、とても豊かな経験となるのではないでしょうか。

以前、ピアノを教えていた子供たちに、「音階の一つ一つは何色だと感じる?」と聞いてみたことがありました。ドは白、レは黄色、ミは青・・・。そこで気付いたのは、人によって見える(イメージする)色が共通のものもあれば、異なるものもあるということでした。また、指の訓練のための単純な音型から考えたストーリーを語ってもらったところ、びっくりするほどユニークなイメージが引き出されました。子供は出会う世界に常にアンテナを張って、受け止めた出来事や感情を蓄積し、きっかけがあれば自分の宝箱からお気に入りの一品をいつでも取り出すことができるのです。

 今私たちは、現実の世界で不自由さを感じています。しかしながら、行動の不自由が心の不自由につながらないよう、物事や言葉を自分の感覚を通して受け止められる、‘想像’と‘創造’の宝箱を常に持っていたいと思うのです。

 

2020.71

細川久恵

 

Photo :細川久恵